見えるものと見えないもの |
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現在は外来で呼吸器・循環器の内科をしていますが、大学時代は胸部外科医として毎日手術をしてきました。若い頃は、癌の患者さんに対しては、癌を根こそぎ取る事だけを考えていましたが、外科医となって15年くらいしたある日、肺癌の手術が終わって退院したお婆ちゃんから「おかげさまで大好きな花の世話ができるようになりました」と言われました。その時「自分がしている手術の目的は、癌を取り除くことではなく、癌を切除することでその人がもっていた正常な組織の機能を守ってあげること」なのだということに始めて気づきました。それ以来、今まで当たり前にしてきた手術は、「癌をみて取る手術から、癌の陰にかくれている正常な組織を見つけて、癌から切り離してあげる手術」に変わりました。 現在の手術は、内視鏡やロボット支援手術などの進歩により、患者さんにとって侵襲の少ない「低侵襲手術」になっていますが、「低侵襲」という言葉は、「患者さんが生まれた時に与えられた正常な組織をできるだけ大切に守ってあげる」というのが本来の概念です。癌だけを見るのではなく、癌の陰にかくれている正常な組織が見えるようになって、はじめて一人前の外科医に育つのだと思っています。 水墨画においては、絵師は、描いている対象物のみを意識することなく、常に周囲の「余白」を意識しながら描いており、それによって単に紙の余白にすぎなかった部分が、完成時には「永遠を感じる空間」となっています。 今年は、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を世界に広くしらしめた鈴木大拙氏の生誕150年にあたります。鈴木大拙氏はアメリカから帰朝し、初めに東京大学印度哲学研究室で仏教の話をした時、机の上においてある花瓶を指さして、「この花瓶をはじめから「花瓶」と見てしまうと、それ以上のものは生まれません。「花瓶を花瓶とみて、花瓶とみない」見方が必要なのです」と話されたそうです。 なんだか禅問答の世界にはいったようで難しい話ですが、要するに花瓶をはじめから花瓶だと決めつけたら、この入れ物は花瓶でしかありませんが、見方をかえれば、器にして水を飲む事もできるし、寝たきりの人の尿瓶(しびん)にもなるかもしれません。 この講義を聞いた仏教学者である紀野一義氏は「花を見て花と見ず」という言葉で表しています。 紀野氏によれば、美しい花を見た時、人は「きれいな花ですね」と言いながら、実はそばにいる人の反応をみている。自分が「美しい花」である事がわかる人間である、ということを周囲の人がわかるように話している。しかし、本当に花の美しさに感動する人は、自ら肥料をやり、虫をとり、風雨から花を守る努力を続けて、しかもそれを苦労とは思わず、むしろ楽しみに感じながら花を育てている。そのような人だけが、花が咲いた時に真に花の美しさに感動して「美しい」と言っている。 (禅 現代に生きるもの NHKブックス) 目に見えているものだけにとらわれると、本当はその後ろにあるもっと大切な物を見失っているかもしれません。 金子みすずの詩 があります 星とたんぽぽ 青いお空のそこふかく 海の小石のそのように 夜がくるまでしずんでる 昼のお星はめにみえぬ 見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ ちってすがれたたんぽぽの かわらのすきに だアまって 春のくるまでかくれてる つよいその根はめにみえぬ 見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ |
2020年6月28日(日) |
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